対ゲリラ戦

この災厄に取り憑かれてから1ヶ月が過ぎた。

高熱、発汗、関節痛、歩行困難と、つぎつぎに障害が発生し続けている。

骨折しても2週間、何かの手術で入院してもせいぜい3週間で退院してきた事を思うと、自分の身体の治癒力低下が恨めしい。発汗をともなう高熱の頻度は下がってきたし、杖を使う事も無くなったが、左足は腫れ上がったままで靴も履けないし、右膝もほとんど曲げられない。

痛風の発作のときも同じような足の感覚なのだが、まばらに敷き詰めた(ビッシリでは無い、あくまでまばらな状態)ビー玉を踏みつけるような、裸足で砕石の上に立つような、とでも言えばその感覚が伝わるだろうか。とにかく体重が掛かると足裏が痛くて、長い時間立っている事さえできないのだ。

会う人ごとに腹が引っ込んだとやら顔が細くなったとやら、本人が「そんなにか!」と思うほど指摘される。確かにそこそこ食欲はあるのに6kgほど痩せはした。だが決して健康的な痩せ方じゃないから何をやってもチカラが持続しない。

 

医者の所見では、蜂窩織炎の症状としては、抗菌療法の効果があってほぼ治まりつつあるものの完全ではなく、生き残った敗残兵のようなヤツらが体内あちこちの筋肉組織に潜んでいて、弱った部分やもともと障害を抱えていた機能に攻撃を仕掛けてくるのだそうだ。

こいつらも最初はありふれた溶連菌や黄色ブドウ球菌だったはずだが、つぎつぎと攻撃を受けるたびに抵抗力を手にし、したたかさを身につけたゲリラとなってテロを引き起してくれる。こうした危険分子をより強力な抗菌薬を使って絨毯爆撃のように根絶させようとすると、本体の組織自体に大きな犠牲が生じる事になり、本末転倒な結果しか望めない。力で押さえ付けようとして意図せぬ反撃を受ける世界各地の現象を見るようだ。

 やはり、時間が掛かっても白血球をはじめとする、自分の自然治癒力に望みを託すしかないのか。

 

 

 

体内バトルゲーム

何だか、とつぜん降りかかったこのやっかいな現象を、振り返って想い返してみるとロールプレイングゲームのような気がしてきました。

 

ある日の午後、ジブン国は得体の知れない強烈な熱波に襲われた。この国の誰も気付かないうちに大地のわずかな裂け目から何者かが侵入し、そして天空を覆い尽くしたのだ。この災いから国を守るべく立ち上がった少年ジブンは、朦朧としながらGクリニックに辿りつく。G医師から処方された解熱ビームを頭上の熱波に照射するがまったく歯が立たない。それどころか時間の経過とともに至る所がイタミに支配されるようになり、侵入経路となった裂け目あたりが膿で覆われはじめた。

次にジブンがツールを求めて向かったのはA外科医のもと。しかしここにそのようなツールはないことを告げられ、紹介状を托されてJ国に向かうことになる。

すがる思いで辿りついたJ国の外科医は、征服者の名をホーカセキエンではないかとし、これに対抗するために飲み続けよと抗生剤を処方してくれた。

戦いはすでに2週間を超えイタミは全身に行き渡り、中でも左足の甲から指先にかけては大きく腫れ上がり、右足の膝はハンゲツバンに損傷を起し、腰椎の間板まで変形して神経に接触するので運動能力が大きく削がれてしまう。

このままでは歩行さえ不能になりかねない。ジブンは意を決してむかしツーフーで世話になったD国のO医師のもとを訪ねる。

O医師はジブンの左足を一目見るなり「よしっ!うちで治してやる!まず、このドリンクを3日間毎日飲め。その間に相手の正体を確かめてやる。そんなことよりCRPの値は即入院の数値だぞ。入院しないんなら土日もここへ来て点滴しろ。」

5日間はすぐに過ぎ去ったが腫れは思ったほど引かない。医師によるとこのイタミと腫れは、ツーフーを引き起こすニョーサン結晶が原因ではなく、何か別種の菌が足先にバリアーを築いているとのこと。さらに正体を探る必要があるから、焦らず治療に専念せよと・・。

 さあ、このあとの展開や如何に。相手の正体が判って勝負を挑めるのか、それとも・・。

イモムシの暑く長い夜

今晩の予想最低気温は25℃。144年の観測史上初、3日連続の熱帯夜。

自由に動けないみじめなイモムシの夜は長く、寝苦しい夜はなかなか朝を引き渡さない。ジツは我が家には居間にエアコンがついている。10年ほど前に、遊びに来る孫娘のために思い切って設置したものではあるが、北海道人としてはこのリモコンにさわることに大きな抵抗がある。「クーラー要らないのが北海道じゃないのか!日和りやがって。裏切り者。」どこかから聞こえて来るそんな声を振り切れないので、いまだにリモコンにさわったことが無い。そんなやせ我慢オヤジを鼻で笑うように、カミさんは手元も見ずに室温やタイマーをセットする。さすがにこのところの熱帯夜。一言も抵抗を示さず無言で恩恵に与っている自分が情けない。

 

高熱は収まってきたが、バーターでもあったように痛風がひどくなってきた。次回の診察は週末の予定だが、痛みを何とかしたくて、もともと痛風で何年も前から掛かっていたなじみの整形外科医に診てもらった。左足第一指(親指)は、食べ頃で大振りのプルーンのような紫色になってきた。

「症状が出たのはいつから?その総合病院では点滴をした?レントゲンは?えっ!抗生剤を1週間分処方しただけ? う〜〜ん、これ、ウチで治していいかい?」

異論があろうはずが無い。

「おっ・・おねがいします!」

「よし、じゃそっちで出された抗生剤は飲まないで処分して。」

 

少し希望の光りが見えてきた。だが、カフカの小説の中にいるような、汗ばむ夜はまだ続く。

 

発熱その後

原因不明の急な発熱から1週間。40度台の高熱はまる3日間で終わったものの、38度台の頭がボンヤリするような状態は1週間過ぎても変わらない。

 

否、今度は全身の関節や筋肉が痛くてたまらない。インフルエンザなど、高熱が収まった後に関節が痛くなるのはよくあることだし、めちゃくちゃハードな登山などの後2〜3日後に襲われる階段も昇れないほどの痛みは覚えがある。

しかし今回のそれは過去に経験がないほどのヒドさで、歩くことは勿論、布団から起き上がることすら容易でない。決意を固め、掛け声というよりはうなり声を発しながらやっとの思いで立ち上がる。この立ち上がった体勢でしばらく呼吸を整え、いろんなものに掴まりながらそろそろとトイレに向かうのだが、シビンを買ってきてもらおうか、それとも何か代用できるものは無いかと本気で考えた。

 

こんな状態ではまったく仕事が出来ない。この痛みを思えばそのうち治るとタカをくくっている訳にもいかない。加えて指先には膿が溜まって腫れ上がり、幼児に多い<手足口病>の際に手や口の中に出来るミズイボのようなものが、その指の付け根あたりに固まってできている。さらに驚いたのは風呂上がりに鏡を見た時だ。胸の上部と両腕に蕁麻疹のような赤い斑点。両方とも全く痒くも痛くもないのだが、原因が不明なだけに気持ち悪いことこの上ない。

 

アルバイトのHが休みなので、国道沿いにある見慣れた看板の外科の門を叩いた。

症状を伝えると老先生は口ごもる。レントゲン、検尿、ベッドに上がって肝臓の触診など、町医者が可能な検査を終えると、「ウチではこれ以上できない。紹介状を書くから総合病院へ行ってくれ。」とのこと。

 

紹介状を携えて総合病院の外科を受診するが、まずはここでもほぼ同じ検査。

「まあやはり傷口から雑菌が入ったんでしょう。抗生剤と痛み止めを1週間分出しておきますから様子を見て下さい。関節痛もそのうちやわらぐと思いますよ。」

「敗血症ならもっと血圧が低下して肝臓がやられますが、今回はそんな感じじゃないですし、もしかしたら<蜂窩織炎>かもしれません。とりあえず、膿だけは皮を切ってとりましょう」

 

<ホーカシキエン>ってナニ?

異常高熱

金曜日のお昼頃、そいつは突然襲いかかってきた。

猛烈な足のダルさに立っていられなくなり、フラフラしながら外へ出て座り込んでしまった。まぶたにも力が入らず、引き下ろされるように上まぶたが下がってしまう。うあっ!こりゃダメだ。風邪かな? ちょっとでいいから横になろう。

1時間ほどソファーにひっくり返っているうちにどんどん熱は上がり、全身から大量の汗が噴き出してきた。またこのソファーが布製クロスではなく革張りとあって、水気の吸い込みが悪く、触れるだけで気持ち悪いことおびただしい。

 

 とぼけた顔でいつものように帰宅したのだが、異常な風貌だったのだろう。一瞬でカミさんに見破られ、極細のカンチョーのようなやつを脇の下に差し込まれる。

「なにこれえ!39度7分もある」の声を遠くに聴きながら、何とか着替え、いろんなクスリを冷水で腹に流し込むと、布団の中で自覚の無いままキゼツする。

 

夜中の3時過ぎ、我が家の老犬が布団の上にあがり鼻を摺り寄せておしっこを知らせるのがルーティーンになっているが、それまでに何度起き上がっては氷を浮かべた水をガブ飲みしたことか。シーツは何リッターもの汗で、洗濯を終えて乾燥に入れる前のような状態。どこに身体をズラしても乾いた部分が無い。夜が開けるまでの長かったこと!

 

朝になって再び計った体温は40度9分。あれだけ解熱剤を飲んだのに上がってる。しかし症状は体温と汗だけ。全く咳もクシャミもでないし咽も痛くない。頭も・・いやさすがにこれだけの熱だものフラフラはするけど頭痛は無い。なんか、風邪じゃないぞコイツは、? でも、じゃあ何? ふだん関心の無い病気の知識では勝ち目も無い。

そんなことより、羽田から朝イチの飛行機で赤ん坊を見せに来る姪夫婦を迎えに千歳空港まで行かなくちゃ。出かける支度をしていると、当然のことながら行くな行くなの連続射撃。でも自分的には大丈夫。頭は痛くないし咳も無い、困るのは汗と熱だけ、運転できないわけがない。

 

高速道路を走りながら、ハンドルに手を添えた右手の人差し指を見て、何の根拠もなくふと思い浮かんだ。こりゃ破傷風のようなもんじゃないか?そう思ったのは2日まえにトゲが刺さったツメの脇。普段なら無視して忘れるくらいのものが化膿して大きく腫れている。いまどき破傷風はないだろう。でも何かの常在菌が身体に入り込んで、今まさに体内で戦争が展開中か?

 

ふと気付くと自分のスピードが遅い。右側を全部のクルマが追い越していく。カミさんのクルマとはいえ皆の障害になるようなこんな走りは自分じゃない。でもどうしてもスピードを上げる気にならないのだ。結局、千歳までの高速道路を大型トレーラーのケツを舐めるように走りきってしまった。大型トレーラーの巻き上げる雨しぶきで時々視界を失いながら、その度に夢遊状態に入って何度か思った。このまま大きな力でクルマごと天空へ持ち上げられるんじゃないかと。

半世紀以上前の若造の頃から、「オレは◯◯歳で死ぬんだ」と、根拠も無くだれかれ構わず言い続けてきたその歳が、ちょうど今年か来年だからかも知れない。

 

 

 

 

湖畔にて

友人からの誘いで30年ぶりに湖畔のキャンプ場へ出かけてきました。

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巨木の森をうねうねと通り抜けた先の、静かな水辺にひろがるキャンプ場は、当時としてはめずらしく車で入れるうえに細かい制約がなく、半世紀前にはすでに美笛キャンプ場としてキャンパー達から相当な支持を得ていました。

我が家も子供たちがそれぞれ忙しくなるまでは、立ち木の位置まで把握するほど足繁く通ったものでした。

記憶に残る最後の回は、暗くなってから隣に大勢の人達が陣取り、トラックで運んだ足場でステージを組み、大音量でカラオケ大会を始めたものでした。子供達の手前思い切って抗議をしましたが多勢に無勢で相手にされず、管理人に訴えるも注意さえしてくれずに尻込みされ、憤まんを抱えたまま夜中にそこを引き払って暗い山中の沢沿いに止めたキャンパーで寝たことを想い出します。

その後、湖畔を一周する道路の札幌側の一部が通行止めとなり、かなりの遠回りを強いられるようになって、自然と足も遠のいていきました。3年前に空知や日高を襲った豪雨の際には、このキャンプ場も地形が変わるほど激流に傷められ大量の流木に覆われて1年間の休業を余儀なくされたようです。

再開後も人気は衰えず、毎週末のチェックイン時には行列ができるそうです。

しばらく敬遠している間に、古い管理棟が小洒落たログハウスに建て替わり、アンモニア臭で目が痛くなるほどだったボットントイレも清潔な水洗式になりました。

そして何より、一晩だけの印象ですし上から目線ではありますが、利用者がオトナになって清しさや静けさを大事にしているように感じます。

そのうち、孫たちを連れて来るのもいいなと日の出前の湖畔に立って思いました。

半年ぶり。でもまた焚き火!

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以前使っていたブログが1月に終了となり、半年ぶりに再開しようとしたら期せずしてまた焚き火の画像。よっぽど好きかと思われそうですがそういう訳ではありません。いや、ほんとはやっぱりこうした小さなイベントが好きなのかも。

 

半年近くも書き込みをしないでいると、何かをどこかに置き忘れているような、それでいて何をするにも億劫な、そんな日々を過ぎ去らせて来たように思います。インスタグラムやツイッターには縁が無く、Facebookに登録こそしたものの使い方が判らない、否、知ろうとしないと言った方が正確かもしれません。

 

この半年の間、工房の周辺でもいろんな変化がありました。2頭の子連れの熊や若い個体を頻繁に見かけましたし、見落としようがないほどたくさんの痕跡が濃厚にその命の存在を主張しています。今年もアオダイショウの交尾を2度ほど見かけましたし、大事に笹薮の中で育てているギョウジャニンニクを鹿に食べられたりもしました。ほかにも、雪解けが異常に早かったり、フェーンのせいもあって5月に猛暑日があったりと、そこそこ気になる出来事がありましたが、何も記録がなければいずれ忘却が覆い被さってくるでしょう。

ブログを休んでいる間に、心配したり残念がったりして言葉を掛けて下さった皆さんありがとうございました。気負わず力まず、ボチボチとまた日記代わりを記してみます。