やっと冬らしく
観測始まって以来の少雪も、立春が過ぎ、開催が危ぶまれる雪祭りが始まる頃になって、やっと解消されてきたようです。
先日のお昼過ぎ、いつのまにか降り始めた綿雪が、2時間ほどで20cm以上も積もりました。全国ニュースでこんな画像が使われるシチュエーションは災害としてでしょうが、少雪のマイナス情報を毎日聞いている身には、安堵さえ覚えます。
ただ、肩の手術を終えて退院はしたものの思うように動かせない状況は、自宅周辺の除雪さえ出来ない結果を招きます。実際のところありがたいことに異常な少雪で全く除雪をせずに2月まで過ごしてきました。これこそが異常なことではあったのですが、昨日のドカ雪ではご近所さんの善意にすがるようなことになって恐縮の極みです。
現在の気温はマイナス8℃でこれが本日の最高気温。今朝の気温はマイナス18℃。
おそらくこのあたりがこの冬の寒さの底かもしれません。
鏡視下肩峰下除圧術
そんな訳で(何が?)、かかりつけの整形外科医の薦めもあって、体調不良の一因である左肩の骨を削ることにした。半年前から悩まされている関節や筋肉痛とは、痛みの原因としてはまったく異なるのだが、余計に出っ張った骨の一部が左肩を吊り下げている腱板に引っ掛かって、動かすと痛みを伴うようになっていた。
5年前にも似たような手術をして、断裂してしまった右の腱板を4本のチタンボルトで固定してもらったのだが、今回もほぼ同じような手術。ただ、腱板そのものをさわるわけではなく、骨を削るだけなので回復は早いという説明だ。
切開する訳でなく、内視鏡などを挿入する4本の穴を開け、関節周辺に水を注入してバルーン状にし、その水の中で作業を行うらしい。全身麻酔が効いていて自分で見られないのが残念だが、内視鏡の画像をモニターで見れたらいいのにと思う。
縫合などのダメージは少ないので退院は早めだが、その後のリハビリはそれなりに掛かるし、面倒でもサボらずに続けるように念を押されている。数年間通い続けているこの病院はスポーツ医学の権威を何人も抱え、手狭になった今の病院の隣接地に近代的で大きな病院を新たに建て替えているのだが、引っ越しが終わって新たなスタートが2月の半ばと決まっている。
「新しい方の病院で気持ちよく手術しますか」との先生に同調し、一旦はそのスケジュールで申し込んだのだが、よ〜く考えてみると、リハビリに努めて軽作業が可能になるのが2ケ月後だという。それじゃ春の納艇に間に合わない。あわてて数日後に「今の旧い方でいいからできるだけ早めに手術して」と頼み込んだ。
さっきベッドのそばに様子を見にきてくれた執刀医は信頼がおけるし、麻酔医も前回と同じだから何の不安も無い。それに何より今回は左手だ。右手の時の不自由さとは比較にならない。その時は右手が使えないとこんなに困るんだと思い知らされた。まず字が書けない、箸が持てない、ベルトが締められない、挙げ句にケツも拭けない。
当人は不安も緊張も無いし、こんな感じで全てこの医者に任せておけば大丈夫と思っているが、身近な人達が色々と心配してくれる。
大丈夫ですよ〜!昼から手術してきます。
割り箸の袋の裏
孫たちがお年玉をもらってひとしきりはしゃぎまわっていたが、別の部屋で遊ぶように促されると、それほど望んでいた訳ではないのに急に静かなオトナの時間に変わった。
おせちを肴に、痛風持ちの哀しさ故、ふだんはなるべく遠ざけている日本酒をチビチビやりながら、こんなときでなければあまり話すことのない、親戚の話や子供の頃の思い出をポツリポツリ。
ゆっくり過ぎてゆく時間と共に、みんなで盛り上がるほどのこともなくなり、黙って手酌しながら昔の同じような場面が想い出されてきた。
とくに誰からということは無いのだが、やはり年長者が唄い出すことが多かったように思う。抑え気味の唄声を、座ったままで、遠くを見ながら部屋に放つ。間を置かずに手拍子が入り、合いの手も追っかける。
半世紀も前のこと。若かった自分が唄えるわけではなかったが、宿や山小屋の灯りの下のそんな時間が好きだった。街にいるときにはアフロヘアを膨らませ、コンポラスーツで身を固め、R&Bに魂を震わせて、邦楽なんてクソだと言いながらだ。
そのころ耳に入った民謡や歌謡曲を、なぜか今でも想い出すことがある。終わりまで覚えている曲など無く、たいていは1番か2番くらいまでで後は鼻歌にしかならないが、おぼろな記憶を呼び起こそうとすると、脳裏に浮かぶのが箸袋の裏だ。
まだカラオケの無い時代、旅館や宴席はもちろん呑み屋やスナックまで、その土地土地の民謡や歌謡曲の歌詞が割り箸の袋の裏に印刷してあり、誰でも声を合わせることができた。真室川音頭、安来節、よさこい節に炭坑節、みんな箸袋の裏で覚えたような気がする。北海道では民謡よりもご当地ソングがほとんどで、函館の女、釧路の夜、好きですサッポロ、知床旅情など、見なくても唄える曲が多かった。なかでも印象に残っているのが、網走・紋別地方の旅館や呑み屋でよく手にした箸袋の裏の<オホーツクの海>だ。
当地が出身地ということもあって、義理の父が呑んで機嫌良くなるとこの歌をよく口にした。追憶に浸るような抑えた唄声に手拍子を合せながら、邪魔しない程度に自分も加わりたくて、とっておいた箸袋の裏の歌詞を目で追ったものだ。
~ 波のうねりも潮鳴りも 消えて沖ゆく舟もなし
見渡す限り流氷の 身を切るような風が吹く ああオホーツクの冬の海
~ 砂に埋もれて朽ち果てた 遠い昔の忘れ舟
二人が寄り添う舟べりに ハマナスそっと咲いていた ああオホーツクの春の海
ゆっくり風呂に入りながら、もっとあちこちの箸袋を想い出してみよう。
ホワイト?クリスマス
昨日の工房の最高気温はー4℃、最低がー10℃と、そこそこ冬らしい寒さではありますが、雪が無いんです。気象台の露場こそ芝生がうっすらと白くなっていて積雪1センチだそうですが、街中どこを走っても道路は乾燥した夏道。各地のスキー場は開店休業、いやいやオープンさえできていないところが続出とか。そのかわり、ウンザリするような雪との格闘もまだゴングが鳴りませんし、除雪屋さんたちも出動ゼロと大助かり。
工房周辺こそ気温が低いせいで街の中よりは雪が残っているのですが、窓から見える景色は11月7日にUPした画像とゼンゼン変わっていません。それでも雪のない地方の方達から見れば十分ホワイトクリスマスということになるのでしょうか。札幌でクリスマスイブに雪がないのは1978年以来の41年ぶりだそうです。
なんだかちょっと物足りない気持ちが拭えないのは、北国の生活者なら皆おなじでしょうか。
蜂窩織炎って何なんだ?
もう1ヶ月近くにでもなるだろうか。
神戸で41才の警察官が亡くなったというニュースを耳にした。交番勤務の若い頃、「公園にフェレットがいる!」という通報があり、捕獲した際にそのフェレットに噛まれたのが原因で蜂窩織炎(ホウカシキエン)という感染症にかかり、17年間の入退院の末に帰らぬ人となったという。
こんなインパクトのないニュース、普段なら頭の隅に引っ掛かることも無く右から左に消えていくのだが、我が身に起きた耳慣れない<蜂窩織炎>を聞き取ってしまったら気になって仕方ない。
一時期の全く起き上がれないほどの痛みは無くなったし、『酷い状態は収まったから、あとは気長に薬で治すしかない』という医者の言葉に頼るというか信頼していたが、同じ病気の人が長期の闘病の末に死亡とは・・。
まあ、ニュースになるくらいだからよほど稀なケースではあるのだろうけれど、今ひとつ嫌な感じを払拭できないのは、もう4ヶ月も経つのに治った感じがしないからだ。 このところ足先の腫れや痛みはないが、膝、肘、肩、腰、首など、毎日どこかの関節や筋肉が痛んでかなわない。1カ所が長く続くことは無いのだが常に何処かしらが動かせないので、情けないやら腹立たしいやら。いったいこの病気は何なんだ。
この頃では、一日の仕事量を健康の心配なんかまったく無縁だった若い頃と較べてみることがある。家庭を顧みず、長時間も厭わず、仕事があるだけしゃにむに働いていた40代の頃からみたら、昨今の出来高は半分以下になっている。
身体のどこかに痛みや障害を抱えた状態ではなく、スッキリした体調で気持ちよく仕事をこなしてみたいが、当分は無理そうかな・・。
やっと? いよいよ?
先週の暖色メインの明るい景色が、いっきにモノトーンの冬景色に変わってしまいました。
平年よりも10日遅く、午前中からショボついていた雨が昼過ぎに雪に変わり、どこか懐かしさも呼び覚ます見慣れた風景に置き換えられています。
この時期、毎年のことながらタイヤ交換のタイミングが頭の中に澱みます。
積雪初日の平年値を軸に、雪の気配があろうがなかろうが自分で決めたとおりに交換してしまう意志力の強い人。天気予報を気にしながらも怠惰には勝てず、一日延ばししているうちに白いものを見てしまう人。「初雪なんてすぐに融ける」と、内心の焦りを敢えて顔に出さずにいても、夜になってクルマを置いて帰宅する後悔繰り返し型のひと。
そういう自分も、昨日の朝タイヤ交換を済ませたギリギリセーフ型のひとでした。
マゼンタをもう少し。
日が短くなり、夕方の帰宅時間は暗闇の中ですが、このところ朝の出勤時は爽やかな晴天に恵まれています。1ヶ月前には深い緑だった道路沿いの山も、少しずつ濃さを失って明るい黄色が支配力を増して来ました。
毎日それとなく見ている景色ですが、紅葉の鮮やかさは今週が盛りでしょう。いやいや、もっと言えば一昨日が一番の見頃だったでしょう。今年の紅葉を写真に留めておこうとカメラを向けながら、おとといよりも赤みが弱くなったと気付きました。
カメラを向けるタイミングを失ったことに、ちょっと残念な思いでハンドルを持ち直して工房に向かいましたが、近くの街路樹の楓が、秋空に惜しみなくマゼンタを滲ませているではありませんか。