盛りすぎ丼

ウニ、イクラ、アワビ、サーモン、マグロ、ホタテ、ヒラメ、ホッキ、シメサバ、更にその上に折り重なるように甘エビが15尾。

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グルメ系のネタはあまり得意でないし、食べ物について書いた記憶はないが、これは黙ってはいられない。なにしろ、エビで手を汚しながらいくら食べてもご飯が見えてこないのだから。

う〜〜ん。食った食った。苫小牧漁協のマルトマ食堂名物<マルトマ丼>。

いま流行りの大食いギガ盛りとは違って、ちょうど満腹・・・そして美味かったア!

でも、ちょっと盛りすぎじゃないですか?

 

AINU ART

webで予約が取れたので、昨年夏にオープンした白老の<ウポポイ>へ行ってきた。

 

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昔からこの場所には観光施設としての<ポロトコタン>があって、いくつかのチセがあり、土産物や木彫品を売ったり踊りを見せたりしていて、いわゆる観光名所ではあった。

僅かずつだが時代は進み、アイヌ民族が先住民であるという自明の事実が法の後ろ盾を得ることになって、国の手により学習施設としての色合いを持たせようと作られたのがこの施設だ。

 

虐げられてきた歴史をことさらに強調する訳でもなく、かといって観光客呼び込みにのみ重点を置いた訳でもない。施設そのものは「国がやればこうなる」と言わんばかりの金の掛けようだが、収蔵品やアトラクションを含めて概ね目的に近い線をクリアしたように見える。

使い古した生活雑器や祭事用の衣服など旧態然とした展示ばかりではなく、その技法を受け継ぎ発展させる現代の作家達の物言わぬ努力が美しい。

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元の場所に立ち並ぶ数棟のチセは、外観こそ茅葺だが建築基準法や消防法、加えてこのところのコロナ禍によって、建物自体が生活感の無い大きな空間になってしまった。

 

 残念なことにこのタイミングで、TVのワイドショウ<スッキリ>のゲストが「あ、イヌが来た」とやったらしく、SNSが炎上しているという。北海道出身者である司会者の加藤が即座に反応して否定せず、薄笑いしていたということが悲しい。

 

とはいえ、年間パスポートを買ったことだし、また時間を作ってじっくり見てみたい。そんな気にはなっている。

こんな吹雪に故障かよ!

何年かぶりのドカ雪。こんなタイミングで除雪機が故障した。

先月あたりからなんとなく予感はあったのだが、膝上までの雪に負荷がかかり過ぎたのか、駆動と投雪のVベルトがほぼ同時にダメになった。

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動かなくなった重たいヤツを無理やり作業場の中に入れて解体作業。

この後、切れかかっていたシュートのワイヤーも直し、ほぼ半日がかりで完了。

もうちょと働いてくれ!

 

復興の日々

昨日、22日はあの地震があってから10年になるとテレビが伝えていました。

その日、突然飛び込んできたニュースは、ニュージーランドで大きな地震が起き、多くの日本人語学留学生が行方不明とのこと。もどかしさに気を揉みながらも、小刻みに入ってくるニュースは、南島最大の都市クライストチャーチの近郊が震源であること、たくさんの建物が倒壊し、語学学校が入ったビルが崩れ落ちて大勢の若者が下敷きになったと報道していました。現地に駆けつけた遺族も捜索現場には近づけず、憔悴と焦燥に無言で堪える様子は今でも忘れられません。

その後判明した犠牲者は日本人の若者が28人、市内全域で185人ということですが、遺体確認ができずその犠牲者数が確定しないうちに、今度は日本が大変なことになりました。そう、2011年3月11日、日本という国家をも変えた東日本大震災が、ショッキングな画像と深い悲しみをを伴って全土に覆い被さってしまいました。

 

10年の時を経ても尚、解体されて更地になったビル跡が散見されるクライストチャーチですが、その街の名にもなった市中心部のカセドラル(大聖堂)の再建が始まったと伝えられました。写真は2018年の様子ですが、大破して前面が崩壊しています。この大聖堂の前に広がる美しい広場が以前のような明るさを取り戻すのはいつになるのでしょうか。

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被災した商業施設や飲食店が、街の一角にコンテナを並べたり積み重ねたりして仮設店舗とし、Re=START(再出発)と名付けて集客している空間を楽しんだのは2016年(写真)。2018年に訪ねた時には大半のコンテナは撤去され、復興が進んでいることを空いたスペースが示していました。

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Re=START

想像できないほどの時間と費用が見込まれるフクシマを除いて、日本でも東日本大震災からの復興はそれなりに進み、仮設の住宅や店舗は撤去されるところが多いようです。

コロナの影響で昨年4月に予定していたNZ旅行はキャンセルになり、次に行けるのがいつになるかまったく不明ですし、移動自粛や非常事態宣言で国内旅行もままなりませんが、大好きなニュージーランドや美しい三陸海岸を訪れる日を心待ちにしています。

楢山節考


たぶん小学校高学年の頃だったと思う、この映画を見たのは。それからずっと記憶の奥の暗がりに、うろ覚えではあるが棲み続けている。

1958年に作られたこの映画は、41歳にして処女作という深沢七郎の原作、木下恵介脚本・監督、田中絹代主演で、フィクションではあるが、かつて全国にあった姥捨の因習を映画化した問題作だったという。

食糧の乏しい山間の部落では、口減らしの慣わしとして、数え七十になったら楢山さまへ登って自ら命を絶つことになっており、老いた母親を息子が背負って神の住む山頂まで運ぶという、やるせない永遠の別れがストーリーではある。

60年以上も昔の映画ではあるが、記憶にあったタイトルを見つけて、観るというか確かめてみたくなった。

 

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楢山節考

年代を考えると無理もないことではあるが、画質の悪いこと夥しい。当時は「総天然色」と誇らしく呼ばれたと思うが、今見ると色使いの不自然なこと。

ロケはなく、全編撮影所のセットで撮られているようで、まるで学芸会のステージにしつらえられたかに見える。奥行きの感じられない背景は、山並みや夕焼け空がいかにも手描きのようだし、土を敷いた床板の上を歩く役者の足音はトントンと軽い音で入ってくる。

子供の頃の印象では、のちに観ることになる「裸の島」のように、セリフが極端に少なくてまるで無声映画みたいだったと記憶していたのだが、そうではなくて、全編にわたって琵琶の音がベンベンベンと途切れなく響き続けるので、よく聞こえなかっただけなのかもしれない。

 

エンドロールのあと突然、時代に合わないSLが線路を走るシーンが映って、停まった駅が「おばすて」という。これは長野県にあるというのだが、映画の舞台ということではなく、地名として残っているというだけのこと。姥捨の忌まわしい習慣はいたるところにあったという。

 

毎日、おにぎりにして1億個以上が捨てられているという今の日本にあって、飢餓をイメージできる若者がどのくらいいるのだろうか。

 

 

 

降雪・無風

昨日から今日にかけて、日本海上の低気圧が台風のような勢力で津軽海峡周辺を抜けるせいで、函館や青森周辺では大雪と強風でたいへんだとニュースが告げています。

ここ札幌でもそこそこの降雪があり、除雪車も出動して、住民もひと時の雪かきに終われました。

自宅前のじゃまな雪をどけて工房に来ると、タイヤが半分隠れる30センチくらいの積雪。ただし、寒さのおかげで雪かきスコップですくっても全く重量を感じない程、ふわふわサラツサラのアスピリンスノー。そのうえ風が無いので吹き溜まりもいっさい無し。

 

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いかに風が無いか、この写真を見てください。

停めおいたキャンパーの垂直な側壁、取り付けられた窓枠の1センチほどの出っ張りの上に、その出っ張りと同じ厚みの雪が屋根まで届いていました。

風も去ることながら、通常は気温の影響で雪の結晶に変化が生じて、崩れ落ちたり巻き垂れを起こすので、こんな状態を保つのは珍しいことです。

 

世界のコロナ感染者は1億人を突破して収まる気配が見えませんが、こんな雪なら除雪機でも遠くまで飛ばせて、気持ち良く1日が始まります。

M J


スノーシューの製作をやめてから、冬の間は少しのんびりできるのでちょっと夜更かしをしても許される(自分で自分を赦すのだが・・)。

昨夜は、たまたま昼間にNHKが告知していた衛星放送の番組で、今は亡きマイケル=ジャクソンの記録映画<This Is It>を観ておこうと思った。

 

ロンドンを皮切りに50公演の10年ぶりワールドツアーが始まる直前、彼がこの世からいなくなったニュースが世界中を駆け巡った。お抱え医者による薬物の過剰投与だとか、本人の異常な服用が原因だとか、未だに真相はわからないままだが、この映画を見て今更ながら世界的損失に気付かされる。

 

振り返れば20世紀後半を生きた我々みんなは、折々にマイケルから視覚と聴覚でHotな贈り物を受け取ってきた。

まだグループ名もなく、地元のショッピングセンターで歌い踊るジャクソン兄弟の頃は知る由もないが、モータウンレコードに見出され、<ジャクソン5>として世界に飛び出してきた時点ですでに、消えゆく運命のジャリタレでは無かった。

ABC, The Love You Save(小さな経験), I 'll Be Thereなどのリズムとメロディは、半世紀を過ぎた今でも揺るぎない記憶だ。

なかでも、ダイアナ・ロスやステイービー・ワンダーに可愛がられた当時10歳のマイケルは、ソウルやポップスの枠にとらわれないエンターテインメントの申し子のような動きと歌で世界の賞賛を集める。突出した才能が兄弟のグループに別れを告げさせることになるが、ソロとしてスタートした14歳(写真)の頃には、宿命とも言える声変わりで悩んだこともあった。

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再び世界を丸ごと味方につけたのが80年代に入ってからのアルバムThriller=スリラーだ。ちょうどその頃先端だったレーザーデイスクから映されるレコード屋のブラウン管の前には、いつまでも人垣が途切れなかったものだ。Beat Itのヒットに至っては、どれだけ多くの若者をムーンウオークの練習に引き摺り込んだことか。

 

この記録映画が伝えるのは、追随を許さないエンターテナーの努力と素顔だ。

莫大な資産や整形疑惑、バイセクシャルなど、取り巻く噂は数あれど、異常なほどの努力と優しさで完璧なエンターテインメントを作りあげようとする姿は、リスペクトして止まないスタッフのみならず、誰もが感動と彼を失った無念さを禁じ得ない。