東京か! いやシベリアか!

またまたブログが書けなくなって4か月。

いろいろやってはみるものの、どうも復活できず。「匙を投げるとはこのことか」と思いつつも忙しさに追われて4か月も空くことに・・。

 

いや~ア、まいったまいったこの夏は。

コロナやオリンピックについて言いたいことは際限なくあるが、感情が混じりそうだし、少し落ち着いてからにした方が毒気が抜けてジェントリーになれるかも。

 

それよりも、書きとどめて置かねばならないのはこの夏の異常気象。

6月中にも7月に入ってからも一度も30℃を超える日がなかったのに、7月の半ばを過ぎてからの連続真夏日。97年前の17日連続の記録を7日に塗り替えて、全道で過去に例の無い暑い夏。猛暑日や熱帯夜のワードを縁遠いものだと思っていたのに、無慈悲に裏切ってくれた。朝から夕方まで何リットルも水やビールを飲み、汗を絞った仕事着を3枚ずつ洗濯機に投げ込む毎日。

各家庭にクーラーなんか無かった半世紀も昔、東京新宿のアパートで寝ゴザをぐっしょり濡らし、ゴロゴロと寝返りばかりうちながら熱帯夜に耐えていたころが懐かしい。

気温だけではない。1か月以上も雨が降らずに照りつけるもんだから、浅い根張りの草たちは成長できないし多くが枯死してしまった。おかげで今年は草刈りをしなくて済んでいるけれど・・。

 

かと思うと、台風から温低に変わった低気圧が北海道の東方海上に抜けて北から冷気を引っ張り込んで、翌日からストーブが欲しくなる肌寒さ。札幌も12日の朝が12℃だったが、何度も真夏日を記録していた稚内市沼川では朝の気温が氷の張るような2℃台だったそう。

 

この極端な傾向は治まることなく今後も続くというのが大方の科学者の見立てだが、我が身の周りだけでなく、49℃にもなって山火事に襲われたバンクーバーをはじめ世界中から届く洪水や干ばつのニュースが、いやでも温暖化説の説得力を増す。

ともあれ、むかしの東京を思い起こさせる暑い夏は終わった。

 

春旬鍋

この土日、ほぼいつものメンバーで、この時期恒例の<春旬鍋>。

毎年のことで、みんな覚えているとは思うけど、ちゃんと伝えておこう。

 

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* まず出汁をとる。できれば水から時間を掛けたほうが良いが、鍋に昆布を敷き、煮干しを入れてひと煮立ちさせる。

* 煮干しや昆布はそのままにして、沸騰したら味噌を溶き入れる。それから油を投入。この油がポイント。さらっさらのサラダオイルではなく、何度か天ぷらなどに使って多少揚げ玉などが混じってドロっとしたヤツの方が断然コクが出る。

* さらに鰹節を一掴み。

* この鍋に入れるものは、適当な大きさに切った豚バラ肉と、採りたてのギョウジャニンニクを山盛り。

* 煮たったら、明日の口臭なんか気にしないでバクバク食べる。

* この鍋はこれで終わりではない。何回かこれを繰り返して具が少なくなった頃、3コ100円のヤツでも良いから、焼きそばの蒸し麺を大量に投入。この味噌ラーメンで〆とする。

 

 

盛りすぎ丼

ウニ、イクラ、アワビ、サーモン、マグロ、ホタテ、ヒラメ、ホッキ、シメサバ、更にその上に折り重なるように甘エビが15尾。

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グルメ系のネタはあまり得意でないし、食べ物について書いた記憶はないが、これは黙ってはいられない。なにしろ、エビで手を汚しながらいくら食べてもご飯が見えてこないのだから。

う〜〜ん。食った食った。苫小牧漁協のマルトマ食堂名物<マルトマ丼>。

いま流行りの大食いギガ盛りとは違って、ちょうど満腹・・・そして美味かったア!

でも、ちょっと盛りすぎじゃないですか?

 

AINU ART

webで予約が取れたので、昨年夏にオープンした白老の<ウポポイ>へ行ってきた。

 

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昔からこの場所には観光施設としての<ポロトコタン>があって、いくつかのチセがあり、土産物や木彫品を売ったり踊りを見せたりしていて、いわゆる観光名所ではあった。

僅かずつだが時代は進み、アイヌ民族が先住民であるという自明の事実が法の後ろ盾を得ることになって、国の手により学習施設としての色合いを持たせようと作られたのがこの施設だ。

 

虐げられてきた歴史をことさらに強調する訳でもなく、かといって観光客呼び込みにのみ重点を置いた訳でもない。施設そのものは「国がやればこうなる」と言わんばかりの金の掛けようだが、収蔵品やアトラクションを含めて概ね目的に近い線をクリアしたように見える。

使い古した生活雑器や祭事用の衣服など旧態然とした展示ばかりではなく、その技法を受け継ぎ発展させる現代の作家達の物言わぬ努力が美しい。

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元の場所に立ち並ぶ数棟のチセは、外観こそ茅葺だが建築基準法や消防法、加えてこのところのコロナ禍によって、建物自体が生活感の無い大きな空間になってしまった。

 

 残念なことにこのタイミングで、TVのワイドショウ<スッキリ>のゲストが「あ、イヌが来た」とやったらしく、SNSが炎上しているという。北海道出身者である司会者の加藤が即座に反応して否定せず、薄笑いしていたということが悲しい。

 

とはいえ、年間パスポートを買ったことだし、また時間を作ってじっくり見てみたい。そんな気にはなっている。

こんな吹雪に故障かよ!

何年かぶりのドカ雪。こんなタイミングで除雪機が故障した。

先月あたりからなんとなく予感はあったのだが、膝上までの雪に負荷がかかり過ぎたのか、駆動と投雪のVベルトがほぼ同時にダメになった。

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動かなくなった重たいヤツを無理やり作業場の中に入れて解体作業。

この後、切れかかっていたシュートのワイヤーも直し、ほぼ半日がかりで完了。

もうちょと働いてくれ!

 

復興の日々

昨日、22日はあの地震があってから10年になるとテレビが伝えていました。

その日、突然飛び込んできたニュースは、ニュージーランドで大きな地震が起き、多くの日本人語学留学生が行方不明とのこと。もどかしさに気を揉みながらも、小刻みに入ってくるニュースは、南島最大の都市クライストチャーチの近郊が震源であること、たくさんの建物が倒壊し、語学学校が入ったビルが崩れ落ちて大勢の若者が下敷きになったと報道していました。現地に駆けつけた遺族も捜索現場には近づけず、憔悴と焦燥に無言で堪える様子は今でも忘れられません。

その後判明した犠牲者は日本人の若者が28人、市内全域で185人ということですが、遺体確認ができずその犠牲者数が確定しないうちに、今度は日本が大変なことになりました。そう、2011年3月11日、日本という国家をも変えた東日本大震災が、ショッキングな画像と深い悲しみをを伴って全土に覆い被さってしまいました。

 

10年の時を経ても尚、解体されて更地になったビル跡が散見されるクライストチャーチですが、その街の名にもなった市中心部のカセドラル(大聖堂)の再建が始まったと伝えられました。写真は2018年の様子ですが、大破して前面が崩壊しています。この大聖堂の前に広がる美しい広場が以前のような明るさを取り戻すのはいつになるのでしょうか。

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被災した商業施設や飲食店が、街の一角にコンテナを並べたり積み重ねたりして仮設店舗とし、Re=START(再出発)と名付けて集客している空間を楽しんだのは2016年(写真)。2018年に訪ねた時には大半のコンテナは撤去され、復興が進んでいることを空いたスペースが示していました。

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Re=START

想像できないほどの時間と費用が見込まれるフクシマを除いて、日本でも東日本大震災からの復興はそれなりに進み、仮設の住宅や店舗は撤去されるところが多いようです。

コロナの影響で昨年4月に予定していたNZ旅行はキャンセルになり、次に行けるのがいつになるかまったく不明ですし、移動自粛や非常事態宣言で国内旅行もままなりませんが、大好きなニュージーランドや美しい三陸海岸を訪れる日を心待ちにしています。

楢山節考


たぶん小学校高学年の頃だったと思う、この映画を見たのは。それからずっと記憶の奥の暗がりに、うろ覚えではあるが棲み続けている。

1958年に作られたこの映画は、41歳にして処女作という深沢七郎の原作、木下恵介脚本・監督、田中絹代主演で、フィクションではあるが、かつて全国にあった姥捨の因習を映画化した問題作だったという。

食糧の乏しい山間の部落では、口減らしの慣わしとして、数え七十になったら楢山さまへ登って自ら命を絶つことになっており、老いた母親を息子が背負って神の住む山頂まで運ぶという、やるせない永遠の別れがストーリーではある。

60年以上も昔の映画ではあるが、記憶にあったタイトルを見つけて、観るというか確かめてみたくなった。

 

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楢山節考

年代を考えると無理もないことではあるが、画質の悪いこと夥しい。当時は「総天然色」と誇らしく呼ばれたと思うが、今見ると色使いの不自然なこと。

ロケはなく、全編撮影所のセットで撮られているようで、まるで学芸会のステージにしつらえられたかに見える。奥行きの感じられない背景は、山並みや夕焼け空がいかにも手描きのようだし、土を敷いた床板の上を歩く役者の足音はトントンと軽い音で入ってくる。

子供の頃の印象では、のちに観ることになる「裸の島」のように、セリフが極端に少なくてまるで無声映画みたいだったと記憶していたのだが、そうではなくて、全編にわたって琵琶の音がベンベンベンと途切れなく響き続けるので、よく聞こえなかっただけなのかもしれない。

 

エンドロールのあと突然、時代に合わないSLが線路を走るシーンが映って、停まった駅が「おばすて」という。これは長野県にあるというのだが、映画の舞台ということではなく、地名として残っているというだけのこと。姥捨の忌まわしい習慣はいたるところにあったという。

 

毎日、おにぎりにして1億個以上が捨てられているという今の日本にあって、飢餓をイメージできる若者がどのくらいいるのだろうか。