ホタルの頃に

ウバユリが花びらを落とし、アジサイが花をつけ、一日の平均気温が20度を越えるようになると、恋の季節を迎えたホタルたちが水際を飛び回るようになります。
毎年、7月下旬から8月上旬に掛けて、自宅のそばの西岡水源池にはホタル見物の人たちが大勢やってきます。この水源地のホタルが報道等で一般に知られるようになったのは、今から20年ちょっと前でしょうか。ちょうどその頃、大手飲料メーカーがスポンサーになり、新聞社も協賛して、「ホタルを呼び戻そう」的キャンペーンが始まり、観察会やシンポジウムに呼ばれて出かけたものでした。
今でもよく覚えているのは、D新ホールでのシンポジウムです。若さも手伝ったのでしょう。パネリストとしてそんなスタンスで語るのは主催者の意図に反すると承知しつつ、ホタルの人工増殖を薦める大学の名誉教授を前にしながら、自由に持論をしゃべらせて頂きました。
今になると、もう少しソフトに婉曲にとも思いますが、当時は人間のエゴに対して怒っていたのです。そしてその想いは現在でも変わってはいません。

「ホタルの棲める清流を呼び戻そう」がキャッチフレーズでした。子供の頃の夏の夜、自宅近くの小川のあたりでホタルの乱舞を見て育った世代、なかでも本州で子供時代を過ごした人たちが、ノスタルジックな想いで企画しました。ここには独りよがりな思い上がりしかありません。
ホタルを懐かしむ世代が過ごした高度成長期前の日本は、明治初期に3千万人だった人口が、戦争を挟みながらも人口爆発で1億人の大台に達しようとした頃でした。ホタルにとってもこの時期は爆発的に生息数を増やした時代だったのです。現在のような下水設備などない頃です。当然、川沿いに増えた人家からはドブを伝って生活廃水が川に流れ込み、清流を好む一部の魚種を除いて、昆虫も貝類も魚類も富栄養化した水の周囲で大発生しました。そうです、清らかなせせらぎとは縁遠い、人間生活のすぐ近くで一時的に増えたのです。ホタルに親しんだおじいさんおばあさんが「昔は良かった」というのはこの時代です。
もう一歩その時代に踏み込んでみて下さい。その頃はトンボや蝶や蝉などの昆虫もたくさんいました。そのかわり大挙して迫るアブや蚊を蚊帳で凌ぎ、そしてそいつらが運ぶ病原菌などと闘った時代でもあるのです。
やがて農薬散布によって雑草と共に水棲生物が息絶え、川床のコンクリート化で澱みも瀬もない川にされて魚類も追い出され、下水の完備によって富栄養水もなくなり、ボウフラと共にホタルも棲まなくなりました。こうやって我々は便利で衛生的な暮らしを手にしたのです。

孫たちにも見せてやりたいという気持ちは判ります。でも人間の都合よくホタルだけ増やす訳にはいかないんです。ホタルの幼虫を放流しても、それだけではうまくいかないのでどこからか運んできてモノアラガイやカワニナを放します。人間がやるのはここまで。巻貝の餌になる魚の死骸や野菜クズまで供給するのは無理ですし、なによりコンクリートを剥がして泥や砂の川床にし、湿潤な河畔林を取り戻さなければなければなりません。

西岡水源池は、明治時代に帝國陸軍が月寒に連隊を設けたとき、水道水確保のために月寒川上流を堰き止めて作った人工の池です。下流域で絶滅したヘイケボタルが、少数ながらここにたまたま残っていました。20年ほど前に、流域人口の増加で月寒川の改修が進められたとき、上流の水源池にホタルが生息しているのを知った札幌市の担当者が、<自然に優しい>ホタル護岸という名案を企画しました。ホタルブロックと名付けた大きめの花壇ブロックを両岸に積み上げて土を入れ、そこを産卵から蛹まで使ってもらおうというものでした。署名活動などで反対はしましたが、企画は通り、どれほどの税金を使ったのか全ての河畔林を消して工事は終了しました。
生態系に対するアクションを考える時、無知と思い上がりほど厄介なものはありません。このホタル護岸を提案した人は、その後の様子を見たことがあるのでしょうか。ブロックの中の土は極度に乾燥してイネ科の雑草やスギナが繁茂し、ホタルの土蛹は夢のまた夢。

蒸し暑い夏の夜、西岡水源池の奥の木道を散策してみてください。どれだけの時間を掛けて、どうやってここに棲むようになったのか、水辺の草の間やその草の上に、小さなヘイケボタルがお尻の発光器を静かに点滅させています。