41年前の札幌

41年前のいま時分、札幌はオリンピックフィーバーで沸きあがっていた。
トワエモアの歌う「虹と雪のバラード」が繰り返しながれ、笠谷ら日の丸飛行隊が表彰台に日章旗を並べ、そしてジャネット・リンが尻もちと笑顔で世界を魅了した。

40年以上という時を経てもやはり、札幌とオリンピックは切り離すことのできない関係を保ち続けている。

高度成長の波に乗って膨張の一途を辿り、その前年に「最果ての百万都市」と呼ばれるようになった札幌は、五輪開催に合わせてさらに大きく変貌を遂げた。モータリゼーションの台頭で、邪魔者扱いになった路面電車の線路網は1系統のみを除いて廃止され、代わりに地下鉄が走り、道路は拡幅舗装されて現在につながる。
その後も札幌は道内国内から人を吸い寄せて2倍近い人口規模に膨らんだが、当時の競技施設である屋外スケート場やアイスアリーナ、それにジャンプ台やスキー場などは、観光施設であると共に今でも変わらず現役で競技に使用され、見る者にオリンピックの感動を蘇らせてくれる。

その後に行われた長野でもそうだろうが、冬季五輪の開催によって、それまでほとんど無名だったSapporoが世界中に知られることになる。事実、札幌オリンピックの数年後に訪れた同じ北方圏のカナダやアラスカは当然としても、ウインタースポーツに全く縁の無いアメリカ南部やメキシコでも、Sapporoの名は大いに反応を呼んだ。しかもその中の何人かは札幌が日本にあることさえ知らずにだ。そしてそのネームバリューは、東京・京都・大阪・広島に次ぐくらいの位置で今でも続いている。

振り返って見ると、この年から札幌に住み始めた自分自身にとっても、41年という時間の経過は、当然ながら大きな変化をもたらした。いつも何気なくアイスアリーナとスタジアムの間を通り、五輪橋を渡りながら、この街で結婚し、この街で子供を育て、そして今では老いてこの街で孫と遊ぶ。


  <五輪マークが外され、名前も変わったアイスアリーナ>

札幌とオリンピックの関係は、この先100年、いやもっと先までも失せずに続くのだろうか。