「ピーーーィィユーーーーーーーーッ!」

工房の窓の外、向かいの林の奥のほうから、黒くて暗い空気を突き破るような牡鹿の声。

月は無い。星空といえば言えなくも無いが満天の星というほどでもない。晩秋の高曇りのせいか、明るくて勢いのある星たちが闇夜のあちこちで冷え冷えと瞬いているだけだ。そんな夜空でも、上方に目をやると樹々の梢はさらに濃い影になってはっきりと見える。

人恋しさ(?)に震えるような牡鹿の声は、すでにかなりの時間が経つのに耳の中で今も響いている。
漆黒の林床に物音はしないが、声のした方へ目を凝らして想像してみる。
たぶん、あの声からするとここから50メートルとは離れていない。暗い林の中に立ちすくんだまま、角もそれほど立派とはいえない若い牡鹿が、正面の方角で鼻先を空に向け、ちょっとだけ首を傾けながら絞るように鳴いた。
冷たい空気によく通る声ではあるが、強壮なオスが牝を引き寄せようとする強引な欲望はこもっていない。忘れきれない母親の優しさやぬくもりを求めるような、未だ見ぬ恋人を遠慮がちに呼んでみるような、いやそれよりも、体内に澱んだ寂しさを声として吐き出したような声だった。

もう山は雪の季節に入った。もうじき林床の笹を押さえ付ける根雪が始まる。