サムライの子

懲りずに毎日降り添える雪を除雪していたときのことです。思い切り遠くまで飛ばしてやろうと、除雪機を高速回転にするのですが、強い向かい風には勝てません。つぎつぎ飛ばす雪のほとんどは思った位置より手前に押し戻され、なかんずく自分自身の目といわず耳といわず全身が真っ白。
そんな時、エンジンの音に消されながらも何げなく自分の口から出た言葉にハッとしました。「・・サムライの子は腹が減ってもひもじゅうない・・」
口癖というほどではないにせよ、子供だった私に亡き父親がときどき投げかけた言葉でした。「武士は喰わねど高楊枝」を子供向けにアレンジしたものだったのでしょうか。いや、父親自身も周囲の大人からそう言われて育ったのかもしれません。
身分や階級が無くなった今では、いにしえから続いた武家に生まれ、自らの身体に侍の血が流れていることなど何の意味があるのでしょうか。

いえいえ、これは自分自身の精神世界にとって非常に重要な、いわば心の軸のようなものでしょう。空腹時に唱えるおまじないではなく、身体的に苦しい時、金銭的に切ない時、いわば追い詰められたときに自分自身を諌める言葉として何度も何度も繰り返してきたような気がします。

山口を中心とする西日本に広く権勢を誇った大内氏が、毛利元就の軍勢によって厳島神社に押し込まれ、討ち死にを覚悟した折り、和睦を進言したことで逆賊扱いされて追放された家臣が私の苗字の弘中だったそうです。その後の足取りははっきりしませんが、戦国時代の終わり頃には石州津和野藩に仕え、爾来わが一族が続いて来たことになります。一族の拠り所だった蔵のある旧家も広い田畑も、残念ですが今では本家筋に後を継ぐ者がいなくて荒れるばかり。親戚縁者に学者や経営者は多いのですが、武家の商法が災いしてか大金持ちはいないようです。

自分の子供や孫たちにそんなことを言っても煙たがられるばかりかも知れませんが、親父として生きて来たこの男が何も残さず死んだとき、ああそうだったんだと思ってくれるでしょう。

「武士道とはやせ我慢の美学なり」とは、新渡戸稲造の言葉だったでしょうか。