記憶を手繰る

冷えきった身体を湯ぶねに浸して二度ほど唸ったあと、やや間を置いて子供の頃に聞き覚えた民謡が弛緩した腹の奥底から出て来た。半世紀も前のことだから順番こそ違うかもしれないが、つらつらと次から次につながって歌の文句とその頃の情景が脳の奥でフラッシュバックする。

浜田え〜エ 浜田港から向こうを見ればア 大豆畑のサマ 百萬町
チャラツチャラチャラ チャラツチャラチャラ チャラツチャラチャラ
浜田え〜エ 浜田育ちは気立ても違う 烈女おはつのサマ 出たところ
チャラツチャラチャラ・・と、唄自体はどこの町にもあるご当地民謡だ。

想えば、島根県浜田市に暮らし、この唄を耳にしたのは幼児か小学生の頃。酒の席で唄いながら覚えた訳ではない。普段は生真面目な父だったが、酒がはいってすこぶる機嫌が良くなったときに唄ったものが、子供の耳に棲みついていたのだろう。
日常の暮らしの中で歌を歌うことなどあまり無かった頃のこと、いつになく大きな声量が少し怖かったような記憶もあるが、それよりもこういう状況は子供にとっても楽しみに繋がることをやがて覚えた。忘年会のようなあるいは歓送迎会のようなものだったのか、年に何度かある宴席のあとご機嫌で帰ってくる父親の手には、いつも口をつけずに持ち帰った折り詰めがあったのだ。

そう度々ではないが、帰りが遅くて気をもむ母の心が伝わってくることもあった。一般の家庭に電話などない時代、妹とふたり母の手にしっかりしがみつきながら、何度か暗い夜道を迎えに出たものだ。裸電球の街灯の下を、ゆらゆらと自転車を押しながら帰ってくる父に遭ったこともあるし、自転車を路肩に倒しかけてなかばつぶれたような時もあった。母が肩を貸して家まで帰ると、だだっ子のように仰向けになって自分の上機嫌さをそこらに振り撒く。「なんともええ女房だったでえ、唄もうまアしのオ」と、少しは妬いてみろと言わんばかり。母は笑いながら「そうかね」を繰り返す。そんなとき親父が目を閉じたまま唄い出すのが浜田節だった。

さらに昼日中の料亭の二階から手拍子と共に聞こえてくることもあったし、夜の酒場の分厚いドアから洩れて来たことも霞の中から想い出す。赤線はすでに廃止されていたし、スナックなどはまだ無い時代だったが、漁師町だったし城下町でもあった浜田の街は、料亭や一杯飲み屋、それに狭い間口のトリスバー、ニッカバー、オーシャンバーといった大人のための薄暗い場所も多かった。

浜田え〜エ 浜田粟島陽の入る頃はア 沖にゃ大漁のサマ 漁り舟

家電もクルマもまだ縁遠い時代だったが、振り返るとすでに高度成長期が始まっていたのだ。