北海道新幹線開業

今日が北海道新幹線の開業日だということは、ずいぶん前から伝わってきていた。
歴史的なイベントとして、だんだんとうねりは大きくなり、このところの盛り上がり様はとまどうばかり。そしてその大波が今日、函館の地にくずおれ覆い被さった。

今日の新聞各紙はまるで元旦だ。特集、協賛、広告、便乗チラシでずっしり重い。

東京まで4時間以上もかかる上に飛行機よりも高い乗車賃などと突き放すつもりは毛頭無い。鉄道マンをはじめ、多くの道民の悲願として、北の地から南に向けた顔のその先にずっと光り続けてきたことを知っている。

ずっとむかし、40年以上もむかし、はるかに若かった頃、青函トンネルの工事に加わり地中奥深くで汗していたことがある。炭坑夫のようにヘッドランプと飯盒の弁当を持ち、金網のエレベーターに乗って竪坑を下りる。それまでに長い間かかって掘り進められた作業用のトンネルの、暗闇の支配するその先へ向って、人車(ジンシャ)と呼ばれるトロッコが進んで行く。
海面下140M、さらに地底100Mの空間は、猛烈な湿度と冬でも30度を超す地熱で蒸し風呂のような世界だった。コンクリートで固められながらゆっくり進んでくる本坑の前方に、まるで露払いのように先回りする何本もの作業抗と先進導抗。地盤がむき出しのその小さなトンネルの先端では、前方の地質の調査や、粘土質で掘り難い地盤を水ガラスで固める作業が1日3交代で進められた。
異常出水で一時的にトンネルが塞がれ、失業のような状態になって、その作業所があった福島町吉岡を離れることになったが、地底の息苦しさや地上に戻ったときの寒さと安堵感は忘れようがない。

北海道と本州をつなぐトンネルの構想は、昭和29年に起こった洞爺丸台風の大惨事から始まる。このあたりからの経緯は高倉健主演の映画<海峡>に描かれているが、私がここで働いた昭和40年代の飯場や切り羽でも、将来ここに新幹線を通すんだという熱い想いと誇りが、働くみんなの胸の内に確かにあった。
まだそのころの新幹線は東京・新大阪間のこだまとひかりだけで、リアリティーこそ全くなかったが、それでもスローガンとしては誰もが充分に納得できるものだった。

今日、メタリックグリーンの新幹線が東京へ向けて青函トンネルに入り、そして反対側のレールに本州からの列車がその姿を見せた。
開業前から赤字経営の心配が囁かれてはいるが、新幹線が津軽海峡をくぐり抜けた今、長い時間を経てやっと青函トンネルのプロジェクトは完了した。